その一
お一人で十分だから
ひとつの世界は、一人の仏さまが、すべての人を導くのに足りています。だから二人目はいりません。
お薬師さま、阿弥陀さま、観音さま、お地蔵さま、大日如来。日本のお寺をめぐると、いくつもの仏さまの名に出会います。「仏教は、こんなにたくさんの仏さまを拝むのか」。そう戸惑う方は、少なくありません。
この多さには、はっきりした理由があります。しかも、たった1つの、とてもシンプルな考え方からたどり着けます。それが、これからお話しする「一仏一国土」です。むずかしそうな言葉ですが、中身はやさしい。順を追って、ご一緒にたどりましょう。
話に入る前に、言葉を2つだけ覚えてください。仏教には、大きく2つの流れがあります。「部派仏教」と「大乗仏教」です。
お釈迦さまが亡くなって長い年月のあいだに、仏教は大きく2つの流れに分かれていきました。1つ目の部派仏教は、初期の教えに近い形を守って伝える、古い流れです。いまのスリランカ・タイ・ミャンマーに伝わる上座部仏教が、その代表です。
もう1つの大乗仏教は、少しのちに興った流れです。出家した人だけでなく、生きとし生けるすべてを、ともに救おうと大きく願いました。中国や朝鮮半島を経て日本に伝わった仏教は、すべてこの大乗です。私たちがお寺でお参りする仏教も、大乗仏教です。
1つの世界に、同じ時に、二人の仏さまが現れることはない。
いま見た部派仏教も、大乗仏教も、この決まりだけは、同じように受けついできました。「1つの世界に、仏さまはお一人」。ここは、どちらも変わりません。
では、なぜ仏さまはお一人で足りるのでしょう。昔の人は、これを王さまにたとえました。1つの国には、王さまが一人いれば国は治まります。もし二人が同時に立てば、どちらに従えばよいか分からず、かえって争いのもとになる。仏さまも同じで、1つの世界を導くには、お一人で十分なのだと考えたのです。
決まりは同じでも、ここから仏教は、大きく2つに分かれます。分かれ目は、たった1つ。世界はこの1つだけと見るか、それとも、無数にあると見るか、です。
「1つの世界に、仏さまはお一人」。変わるのは、世界をいくつと数えるか。1つと数えれば、仏さまはお一人。無数と数えれば、そのひとつひとつに仏さまがいて、仏さまも無数になります。
同じ1つの決まりを、世界の数で裏返しただけ。それだけのことが、お釈迦さまお一人を仰ぐ仏教と、阿弥陀さま・お薬師さまをはじめ、数えきれない仏さまを仰ぐ仏教とを、分けました。その2つを、順に見ていきます。
世界の数で、仏教は分かれる
古くからの部派仏教は、世界を「この1つだけ」と見ました。
いまこの世におられる仏さまは、お釈迦さまただお一人。ほかの世界に仏さまがおられるとは、説きません。お釈迦さまは、2500年ほど前、インドに実際にお生まれになり、さとりを開かれた歴史上の人物です。その教えをひたすら受けついでいく。すっきりと厳格な、一仏の仏教です。
「1つの世界」は、小さな場所のことではありません。中央に須弥山がそびえ、まわりを大陸と海がめぐる小さな世界を、千倍、また千倍、さらに千倍と三度かさねた、三千大千世界。小さな世界10億個ぶんです。
この三千大千世界ぜんたいが、お一人の仏さまの国土です。10億の小さな世界をまとめて、ひとつの国とみなし、一仏刹と数えます。
私たちの住む、この三千大千世界を、娑婆世界といいます。その教主、すなわち世界を導く仏さまが、お釈迦さまです。世界が小さいからお一人なのではありません。これほど大きな世界ぜんたいを、お釈迦さまお一人で受けもっておられる。これが「1つの世界に、仏さまはお一人」の意味です。
この見方は、部派の文献も同じです。南に伝わった上座部は『論事』で、北で栄えた説一切有部は『順正理論』で、「いま、ほかの世界にも仏さまがおられる」という説を、はっきり退けます。世界はこの1つだけ。だから、いまの仏さまも、お釈迦さまお一人。理屈が、きれいに通っています。
「1つの世界」の大きさ
小さな世界を1000倍し、また1000倍、さらに1000倍。
大乗仏教は、世界を「数えきれないほどあって、そのうちの1つ」と見ました。
夜空の星の数ほど、いえ、それよりもっとたくさんの世界がある。そのひとつひとつが、それぞれ三千大千世界の大きさをもち、それぞれの仏さまがおられます。私たちの住む娑婆世界には、お釈迦さまお一人。西のかなたの極楽には阿弥陀さま、東のかなたの浄瑠璃にはお薬師さまが、いま、現におられる。そう考えたのです。
ここで、はじめの疑問に答えが出ます。お寺には、なぜこんなにたくさんの仏さまがおられるのか。日本のお寺で出会う仏さまは、もともとそれぞれ、別の世界の主です。阿弥陀さまは極楽、お薬師さまは浄瑠璃、阿閦さまは東方の妙喜世界の仏さま。世界がちがうので、同時におられても、少しも矛盾しません。
では、なぜその別世界の仏さまを、この娑婆のお寺でお参りできるのでしょう。ほかの世界の仏さまが、この世界の人びとを救うために、仮のお姿をとって、この世にあらわれてくださるからです(示現といいます)。だからこそ、別の世界の主でありながら、阿弥陀さまもお薬師さまも、いま、私たちの目の前のご本尊としてはたらいてくださいます。お寺の仏さまの多さは、無数の世界の仏さまが、この1つの世界へ手をのべてくださっている、そのあらわれなのです。
大乗の経典は、この無数の仏さまを、いきいきと描きます。『無量寿経』の極楽、『薬師経』の浄瑠璃、『法華経』の永遠のお釈迦さま。
「世界は無数」という見方は、やがて、もう一歩先へ進みます。
無数の世界に、無数の仏さま。ならば、そのすべてをつらぬいて、いっぱいにゆきわたる、一つの仏さまがおられるのではないか。こうして大きく描かれたのが、『華厳経』の毘盧遮那仏です。盧舎那仏ともいい、奈良の東大寺の大仏さまが、この仏さまにあたります。あまねく照らす光のように、数えきれない世界のすべてを、お身体とする仏さま、と説かれます。
この仏さまの世界は、実際に目で見ることができます。さきほどの奈良・東大寺の大仏さま(盧舎那仏)の台座です。大仏さまが坐す、大きな蓮の花。その花びらの一枚一枚に、毛彫りで、須弥山や天界が描き込まれています。これが、『梵網経』の説く世界の絵そのものです。経はこう説きます。花びらの一枚一枚が、それぞれ一つの世界。その一つずつに、お釈迦さまがあらわれて仏になる(「一花百億国、一国一釈迦」)。1つの世界にお一人、という決まりは、ここでもそのまま。そして、その数えきれない釈迦は、みな盧舎那仏お一人のお身体(「盧舎那本身」)なのです。無数の世界をぜんぶ束ねた、一枚の蓮の花。その主が、盧舎那仏です。
この盧舎那仏を、密教はさらに深めて、大日如来と呼びます。「大日」とは「大いなる毘盧遮那」、すなわち摩訶毘盧遮那のことです。大日如来は、「1つの世界にお一人」という決まりの外側にいる特別な仏さまではありません。その決まりを、あらゆる世界の全体という、いちばん大きな世界にまで広げたときの、その一仏です。あらゆる処、あらゆる時に満ちて、たえず教えを説きつづける。世界のすべて、すなわち法界そのものを、お身体とする仏さまなのです。
ですから、目の前のお釈迦さまと、大日如来とは、別々の仏さまではありません。『観普賢経』は「釈迦牟尼を毘盧遮那と名づけ、あらゆる処に遍し」と説きます。法界に満ちる、まことのお身体を、法身といいます。その法身が大日如来。その大日如来が、私たちの世界に応じて示してくださったお姿、すなわち応身が、お釈迦さまです。同じ仏さまの、2つの見えかたです。これは真言宗が新しく作り出した考えでもありません。華厳の、世界のすべてをつらぬく盧舎那仏を、お大師さまが、自ら教えを説く法身の仏として受けとめなおしたのです。
「1つの世界」をどこまでと見るか
日本に伝わったのは、この大乗仏教でした。だから、日本のお寺は、仏さまでいっぱいなのです。
阿弥陀さま、お薬師さま、大日如来、歴史のお釈迦さま。これらが1つの伽藍にともにおまつりされていても、矛盾しません。日本の仏教は、「世界の数だけ仏さまがいる」という大乗の見方の上に立っているからです。はじめに戸惑った「仏さまの多さ」は、この広やかな世界観のあらわれだったのです。
四国八十八ヶ所をめぐると、札所ごとに本尊はさまざまです。薬師如来、大日如来、観音さま、お地蔵さま……。そのひとつひとつにお参りすることが、そのまま「世界の数だけ仏さまがいる」という、この広やかな世界観の中を歩くことでもあります。
平等寺は、高野山真言宗のお寺であり、四国八十八ヶ所の第二十二番札所でもあります。真言宗は、すべての世界にゆきわたる大日如来を、いっさいの仏さまの源、すべての徳をひとつに兼ねそなえた全体(普門総体といいます)として仰ぎます。そのうえで、本尊には、その全体のうちの1つの徳をあらわす仏(一門別得)として、東方浄瑠璃のお薬師さまをおまつりしています。
さらにお大師さま(弘法大師空海)は、即身成仏を説きます。仏さまは、はるか遠くの別世界にだけおられるのではありません。私たち一人ひとりが、もとから大日如来とひとつにつながっていて、手を合わせ、真言をとなえ、心を仏さまに向ける行い(三密)のなかで、この身のままで、仏さまのいのちに触れていく。そう説かれるのです。
無数の世界に、無数の仏さま。その問いは、やがて「私の心の奥に、どのように仏さまを見いだすか」という、お一人おひとりの歩みへと形を変えていきます。ここまでが本編です。ここからは、原典の言葉でさらに確かめたい方へ。
「仏さまは何人か」という問いは、やがて「私の心の奥に、どのように仏さまを見いだすか」へと、深まっていく。
ここからは、もう少し深く知りたい方へ。まず「なぜお一人で足りるのか」。後の世の学僧たちは、その理由を、4つに整理しています。
その一
ひとつの世界は、一人の仏さまが、すべての人を導くのに足りています。だから二人目はいりません。
その二
仏になる前の修行のとき、「ほかに導き手のいない世界をえらんで、私がよりどころになろう」と願を立てられたからです。だから、すでに仏さまのいる世界に、重ねて出ることはありません。
その三
お一人だからこそ、人は「めったにお会いできない、尊い方だ」と、深く敬う心を起こします。
その四
出会いがまれだと知ればこそ、人は「いま、教えに励もう」と思い立ちます。
4つの理由は、どれも「一人で満ち足りている」という一点に帰ります。では、もしもう一人、仏になれるほどの方がいたら。その方は、この世界で二人目になるのではありません。まだ導き手のいない別の世界へ、人々を救いに向かわれます。だから、どの世界も、ちゃんとお一人の仏さまに見守られるのです。
ここからは、もっと深く知りたい方のために、もとの経典の言葉を、ひとつずつ添えていきます。この教えは、パーリ語・梵語(サンスクリット)・漢文・チベット語という、4つの言葉の経典で、言いまわしまで、ほぼ同じ文句で残っていることが確かめられます。まずは、いちばん古い層から。
aṭṭhānam etaṃ anavakāso yaṃ ekissā lokadhātuyā dve arahanto sammāsambuddhā apubbaṃ acarimaṃ uppajjeyyuṃ, netaṃ ṭhānaṃ vijjati.
阿難、若世中有二轉輪王並治者、終無是處。阿難、若世中有二如來者、終無是處。
我從佛聞、親從佛受、欲使一時二佛出世、無有是處。
Kena kāraṇena dve tathāgatā ekakkhaṇe nuppajjanti? Ayaṃ, mahārāja, dasasahassī lokadhātu ekabuddhadhāraṇī, ekasseva tathāgatassa guṇaṃ dhāreti. Yadi dutiyo buddho uppajjeyya, nāyaṃ dasasahassī lokadhātu dhāreyya, caleyya kampeyya nameyya onameyya vinameyya vikireyya vidhameyya viddhaṃseyya, na ṭhānamupagaccheyya.
如一中千世界、爾所中千千世界、是為三千大千世界。如是世界周匝成敗、眾生所居名一佛剎。
つづいて、流派ごとの論書です。同じ教えが、それぞれの言葉で理由づけられ、やがて「世界の広さ」をめぐって、上座部・説一切有部と、大乗とが分かれていきます。
まず、北で栄えた流派が、「なぜ二人の仏さまは同時に出ないのか」を、理由を挙げて整理しました。
又問、何因二佛如來・應供・正等正覺不同時出。答、菩薩往昔修因其事廣大、謂於長時、唯一師教・一種修習、作諸善法、隨其所作同一解脱・唯一所尊・唯一大智。作諸善業、長養成熟、於一時中無二果報現前所起。此復云何。答、二難並故。以是因故、於一時中二佛如來・應供・正等正覺不同出世。
若爾、何故一世界中無二如來俱時出現。以無用故、謂一界中一佛、足能饒益一切。又願力故、謂諸如來爲菩薩時先發誓願、願我當在無救無依盲闇界中成等正覺、利益安樂一切有情、爲救爲依爲眼爲導。又令敬重故、謂一界中唯有一如來便深敬重。又令速行故、謂令如是知一切智尊甚爲難遇、彼所立教應速修行、勿般涅槃或往餘處、便令我等無救無依。故一界中無二佛現。
sangs rgyas gnyis snga phyi med par 'jig rten du 'byung ba ni gnas ma yin zhing go skabs med de.
Ko hetuḥ kaḥ pratyayaḥ yaṃ ekasmiṃ kṣetre dvau samyaksaṃbuddhau nopapadyanti? Yat kāryaṃ naranāgena buddhakarma suduḥkaraṃ, tat sarvaṃ paripūreti eṣā buddhāna dharmatā. Asamartho yadi siyād buddhadharmeṣu cakṣumāṃ, tato duve mahātmānau utpadyete tathāgatau. Taṃ cāsamarthasadbhāvaṃ varjayanti maharṣiṇāṃ, tasmāt duve na jāyante ekakṣetre nararṣabhau.
Sabbā disā buddhā tiṭṭhantīti? Āmantā. Puratthimāya disāya buddho tiṭṭhatīti? Na hevaṃ vattabbe …pe… puratthimāya disāya buddho tiṭṭhatīti? Āmantā. Kinnāmo so bhagavā, kiṃjacco, kiṃgotto, kinnāmā tassa bhagavato mātāpitaro, kinnāmaṃ tassa bhagavato sāvakayugaṃ, konāmo tassa bhagavato upaṭṭhāko, kīdisaṃ cīvaraṃ dhāreti, kīdisaṃ pattaṃ dhāreti, katarasmiṃ gāme vā nigame vā nagare vā raṭṭhe vā janapade vāti? Na hevaṃ vattabbe.
佛說一三千大千世界中無一時二佛出、非謂十方世界無現在佛也。
決定無有一佛土中、有二如來俱時出世。
見くらべると、決まりはどれも同じ。「1つの世界に、仏さまはお一人」。その「1つの世界」の大きさも、部派も大乗も、須弥山世界を10億あつめた三千大千世界=一仏刹=娑婆世界=この私たちの世界で共通しています。ちがうのはただ一点、その世界を「この1つだけ」と見るか、「無数にある、そのうちの1つ」と見るか。阿弥陀さまやお薬師さまを仰ぐ私たちは、後の、大乗の道の上にいます。
最後に、大乗の、ひろがりゆく仏さまのとらえ方から、毘盧遮那仏・大日如来へとつながる、原典の言葉です。
一一毛孔中、一切剎塵諸佛坐、菩薩眾會共圍遶、演説普賢之勝行。
法王唯一法、一切無礙人、一道出生死。一切諸佛身、唯是一法身、一心一智慧、力無畏亦然。(中略)一切諸佛剎、莊嚴悉圓滿、隨眾生行異、如是見不同。
盧舍那佛神力故、一切剎中轉法輪(中略)法身堅固不可壞、充滿一切諸法界、普能示現諸色身、隨應化導諸群生。
我今盧舍那、方坐蓮花臺、周匝千花上、復現千釋迦。一花百億國、一國一釋迦、各坐菩提樹、一時成佛道。如是千百億、盧舍那本身。
我實成佛已來、無量無邊百千萬億那由他劫。
釋迦牟尼名毘盧遮那、遍一切處、其佛住處名常寂光。
是初佛身、隨眾生意有多種故現種種相、是故說多;是第二佛身、弟子一意故現一相、是故說一;是第三佛身、過一切種相、非執相境界、是故說名不一不二。(中略)離於法身、無有別佛。
一切身業、一切語業、一切意業、一切處、一切時、於有情界宣説真言道句法。
自性・受用佛、自受法樂の故に、自眷屬と與に各おの三密門を説く。之を密教と謂ふ。
薄伽梵は即ち毘盧遮那の本地法身なり。次に如來と云ふは、是れ佛の加持身なり。其の住する所、佛の受用身と名づく。
上從大日尊、下至六道衆生、相住各各威儀、顯種種色相、並是大日尊之差別智印也、非更他身。故經文云、我即法界、我即金剛身、我即天龍八部等。如是法身、互相渉入、猶如絹布絲縷、竪横相結、不散不亂、是則經之義也。
六大無礙にして常に瑜伽なり。四種曼荼、各おの離れず。三密加持すれば速疾に顕る。重重帝網なるを即身と名づく。
本記事は、高野山真言宗 平等寺 住職 谷口真梁(たにぐち しんりょう)が、次の原典と資料にもとづいて記しました。漢訳経論は大正新脩大藏經(CBETA。空海の撰述は SAT 大正蔵テキストデータベース)、パーリ語は南伝の原典(PTS本)、梵語は校訂本、チベット訳はデルゲ版テンギュルの本文から確認しています。「No.」は大正新脩大藏經の経・論番号、「Toh」はデルゲ版テンギュルの東北大学目録番号です。
仏さまの数と世界のひろがり、そして平等寺の祈りを、さらに知るための記事です。