百千万劫は、計算の数字ではなく、出遇いの稀有さを言い表す言葉。
第二句の「劫」は、お経が時間の長大さを語るときの単位です。お経には有名な譬えがあります。一由旬四方の大きな岩を、天人が100年に一度だけ舞い降りて、天女の羽衣でそっとひと撫でする。その岩がすり切れて無くなっても、まだ一劫は終わらない。磐石劫と呼ばれる譬えです。由旬は古代インドの距離の単位です。同じ趣で、鉄の城を満たした芥子粒を100年に一粒ずつ取り去る、芥子劫の譬えもあります。
開経偈は、その劫を「百千万」と重ねます。これは計算してみせるための数字ではありません。「どれほど時を重ねても出遇えないほどのもの」という、出遇いの稀有さを言い表す言葉です。
出遇い難さそのものを語る譬えも、お経にあります。大海に浮かぶ一本の木に小さな孔がひとつ空いていて、海の底には100年に一度だけ海面に顔を出す盲目の亀がいる。その亀が顔を出した拍子に、ちょうどその孔へ首が入る。人の身に生まれ、仏の教えに出遇うことは、それよりも難しい。盲亀浮木の譬えです。お釈迦さまはこの譬えを説いたあと、こう続けます。「そして、あなたたちは、いまその得難いものをすべて得ている」。稀有を嘆くためではなく、いま手の中にあるものに気づかせるための譬えなのです。開経偈の第三句「我今」は、まっすぐこの呼びかけにつながっています。
これらはいずれも、長さを思い描くための譬えです。劫の本来の姿は、世界そのもののひとめぐりにあります。世界が形づくられ、生きものが住み、やがて壊れ、何もない空白にもどる。この一巡りを大劫といい、『倶舎論』は成劫・住劫・壊劫・空劫の四つの時期に分けてこまやかに説きます。開経偈が「百千万」と重ねるのは、この大劫です。
劫(kalpa)とは、どれほどの時間か
たとえ:尽きても、なお終わらない
『雑阿含経』巻34・『増一阿含経』巻50・『大智度論』ほか。由旬(ゆじゅん)は古代インドの距離の単位。
これは「長さ」をしのばせる譬えにすぎません。劫の本来の姿は、世界そのものの一めぐりです。
本義:大劫(mahākalpa)=世界の一めぐり
成劫世界が形づくられる
→住劫生きものが住む
→壊劫世界が壊れていく
→空劫何もない空白
↺四つの時期はそれぞれ中劫(人の寿命が延び縮みする一めぐり)20劫分。
20×4=80中劫で、ようやく1大劫。成仏には、これを無数に重ねた三大阿僧祇劫がかかると説かれます。
『倶舎論』「分別世品」。
開経偈は、その大劫を「百千万」と重ねる百千万劫難遭遇 = どれほど時を重ねても、教えに出遇うのは難しい
岩や芥子の喩えは、長さを思い描くための方便です。劫の本義は、世界が成り・住し・壊れ・空ずる、ひとめぐりの時間の単位でした。