経典の言葉(本誓・書き下し)
- 日本語訳
- 世尊よ。わたしは未来の衆生に利益と安楽をもたらし、財宝を豊かにし、国土を護るために、みずからの真言を説きます。わたしのこの真言は、まことの如意宝珠(マニ宝珠)の王のように、もろもろの願いを満たします。
- 原文
世尊、我れ未来の諸有情等の利益安楽、豊饒の財宝、国界を護持せんが為の故に、自らの真言を説かん。我が此の真言は、真の摩尼宝王の如く、能く衆願を満てん。
- 出典
- 不空訳『毘沙門天王経』(大正蔵 No.1244)
福を得て、人へ回す天

人に安楽を、暮らしに財を、国土に護りを。経文から、毘沙門天の三つの誓いが見えてきます。
毘沙門天と多聞天は、同じ天の二つの呼び名です。仏の世界を東西南北から護る四尊の天を四天王といい、その北方を受け持ちます。日本では一般に、四天王の一尊としては多聞天、単独で信仰されるときは毘沙門天と呼ばれることが多くあります。
天とは、仏法を護る神々のことです。毘沙門天はそのなかでも、武運と福徳をあわせもつ天として古くから日本で親しまれ、福をもたらす七柱の神仏をあわせ祀る七福神にも、その一尊として迎えられました。
梵語ではヴァイシュラヴァナ(Vaiśravaṇa)。「あまねく聞こえる(名高い)」の意に解されてきた名で、漢訳の「多聞」はこの「聞」を受けた訳語です。インド神話では富の神クベーラの別名とされ、財宝と福徳をつかさどる性格は、この系譜を受け継いでいます。
本誓とは、仏や天がみずから立てた根本の誓いのことです。『毘沙門天王経』の言葉からは、人を安らかにし、財を豊かにし、国土を護るという三つのはたらきを読み取れます。
『毘沙門天王経』の冒頭に、毘沙門天が仏の御前へ進み出て、人々のために自らの真言を説かせてほしいと願い出る場面があります。その願い出の言葉に、三つの誓いがそのまま揃っています。
世尊、我れ未来の諸有情等の利益安楽、豊饒の財宝、国界を護持せんが為の故に、自らの真言を説かん。我が此の真言は、真の摩尼宝王の如く、能く衆願を満てん。
「利益安楽」「豊饒財宝」「護持国界」。経典自体がこれを「三本誓」と数え上げるわけではありませんが、人を安らかにし、財をもたらし、国土を護る三つの願いが、一続きの言葉に揃っています。毘沙門天の性格が、ここに端的にあらわれています。
毘沙門天は、甲冑をまとう武装の天として表されます。きびしい面持ちで、片手に宝塔を、もう片手に宝棒や戟を執り、足下に邪鬼を踏むのが基本のお姿です。
とりわけ宝塔は、毘沙門天ならではの持物です。宝塔とは、お釈迦さまの遺骨(仏舎利)を納める塔のこと。塔は仏法そのものを指し示すしるしでもあり、それを高くささげ持つ姿が、仏の教えを護るこの天の役目をあらわしています。
仏舎利と仏法をささげ持つ塔。毘沙門天の最も特徴的な持物です。経には、この塔を「普集功徳微妙宝塔」と名づけ、その内に八万四千の法蔵を納めると説かれます。
邪を打ち払う武器。鉾や戟の形であらわされ、武神・守護神としての力を示します。
大地の女神である地天女が両手で足を支え、尼藍婆・毘藍婆という二鬼を従える異国風のお姿。足下の三尊の名まで漢訳の儀軌に説かれた姿で、毘沙門天信仰の篤かった西域の面影を伝えます。京都・東寺の国宝像は、平安京の正門 羅城門の楼上に、都の守りとして安置されたと伝わります。
兜跋のお姿は、彫像だけの意匠ではありません。小野流の事相書『祕鈔』は、地天が脚を承け、二部の薬叉が足を扶ける毘沙門天を道場に観想すると伝えます。ただし、その注釈『祕鈔口决』は、地天が脚を承けるのは兜跋のお姿のことで、ほかの毘沙門天がかならずそうなのではない、と念を押しています。同じ注釈は、宝塔を毘沙門天の三昧耶形(尊の本誓を象徴するかたち)としたうえで、左手の塔と右手の棒を一対に見て塔を理、棒を智とし、さらに毘沙門天の身そのものが塔であると説く口伝も収めます。三昧耶形に宝塔と宝棒の二つを挙げる本もあります。
毘沙門天のご利益は、経文に表れる三つの誓いを、日本の人びとがそれぞれの暮らしの祈りとして受け取ってきたものです。
経典では、怨敵を退けて正法と国土を護る、四天王としての誓いが説かれます。日本ではこの守護の信仰が武運や勝運の祈りへ広がりました。聖徳太子が戦勝を祈ったと伝わる信貴山の縁起も、その展開の一つです。
如意宝珠(意のままに宝を生む珠)を源として、人々に財をもたらすと説かれます。商いの発展とともに、福の神として広く親しまれてきました。
心身を安らかにし、威光・寿命・福力を増し益すはたらきと説かれます。
福を願う祈りを、経典は否定しません。そのうえで『毘沙門天王経』は、得た財を自らの用のほかは施しに回し、物惜しみせず、一切の人に大慈の心を起こせと説きます。密教の事相書にも、毘沙門天に帰依するには、まず法を興し人を利する願を発せよ、と説く口決が伝わります(『行林抄』)。福は自分のところで止めず、人へ回す。それが毘沙門天の福徳です。
毘沙門天は、家族とともに祀られることがあります。妃とされる吉祥天と、王子の善膩師童子を両脇に置く、毘沙門三尊のかたちです。吉祥天を毘沙門天の妃とするのは仏教の伝えで、インドの神話では、同じ女神(ラクシュミー)はヴィシュヌ神の妃とされます。
『金光明最勝王経』には、毘沙門天みずからが、中央の仏の左に吉祥天女、右に多聞天を描くよう説く画像法があります。この古い経説からも、毘沙門天と吉祥天の近さがうかがえます。ただし、善膩師童子を含む現在の毘沙門三尊そのものを直接定めた一節ではありません。
世尊、若し呪を持つ時、我が自身の現ずるを見んと欲せば、月の八日或いは十五日に、白疊の上に仏の形像を画くべし。当に木膠と雑彩とを用いて荘飾すべし。其の画像の人は、為に八戒を受く。仏の左辺には吉祥天女の像を作り、仏の右辺には我が多聞天の像を作り、并せて男女の眷属の類を画け。
王子の善膩師童子も、同じ品に登場します。三宝を供養したくても財の乏しい人のために、善膩師がとりつぎ、父の毘沙門天が、日ごとに百の銭をその人へ与えると約束する物語です。真言宗の毘沙門天法でも、毘沙門天の前に如意宝珠から吉祥天女を観想し、はじめから弘い誓いを起こして余すところなくすべての衆生を救いとる、とその徳を結ぶと『祕鈔』は伝えます。三尊は、彫像のうえだけのかたちではありません。興然の事相書『五十卷鈔』によれば、毘沙門天護摩は五つの段に組み、その部主(その部を統べる尊)の段に吉祥天を立て、念誦には毘沙門天の真言に続けて吉祥天と善膩師童子の真言を数えます。父と妃と子を一具に祈る形が、修法の次第そのものに組まれていました。
毘沙門天を説くおもな経典は、本誓を説く『毘沙門天王経』と、四天王の護国を説く『金光明最勝王経』です。後者の「四天王護国品」には、四天王が仏の御前で、この経を大切にする王と人々をかならず護ると誓う場面があります。
世尊、若し彼の国王、四衆の此の経を受持する者を見て、恭敬し守護すること猶お父母の如く、一切の須うる所を悉く皆な供給せば、我等四王、常に守護を為し、諸の有情をして尊敬せざること無からしめん。是の故に我等、無量の薬叉・諸神と并びに、此の経王の流布する所に随いて、身を潜めて擁護し、留難無からしめん。亦た当に是の経を聴く人、諸の国王等を護念し、其の衰患を除き、悉く安隠ならしめ、他方の怨賊をば皆な退散せしむべし。
ここで直接説かれるのは、正法を大切にする王と国土を護る誓いです。この護国の信仰が、日本では武運や必勝の祈りへ展開しました。同じ品の別の段には、尊貴と財利をかなえる福徳のはたらきも説かれます。
毘沙門天は、四天王の北方を担う天として、仏法と国土を護る守護神と重んじられてきました。中国から経典と像が伝わると、日本では早くから一尊だけでも祀られ、武運と福徳の本尊となりました。
唐代の密教では、不空が訳した『毘沙門天王経』をはじめ、毘沙門天の真言・印・念誦の法や画像の法が整えられました。唐ではまた、敵に囲まれた辺境の安西城を、不空の祈祷にこたえて毘沙門天の天兵が救った、という霊験譚が語られました(伝不空訳『毘沙門儀軌』の縁起)。史実の記録ではなく護国の説話ですが、国を護る天としての信仰が唐でどれほど篤かったかを伝えています。
福徳や威徳を増す修法を、密教では増益といいます。災いを鎮める息災、悪しきものを退ける調伏などと並ぶ、修法の分類の一つです。毘沙門天は、如意宝珠を根本に置く福徳の祈りのなかで、福徳と威徳を増す増益の祈りの本尊とされてきました。
その裏づけは、経典のなかの毘沙門天(多聞天)自身の言葉にあります。
世尊、我に如意宝珠陀羅尼の法有り。若し衆生の楽いて受持する者有らば、功徳無量なり。我れ常に擁護して、彼の衆生をして苦を離れ楽を得しめ、能く福智二種の資糧を成ぜしめん。
密教の事相書は、妃とされる吉祥天を宝生尊(宝を生む徳をつかさどる如来)の分身とし、その法を息災増益の護摩に結びつけて伝えます。平等寺が毎月1日に修する毘沙門天護摩も、この増益の祈りにつらなります。
おん ばいしらまんだや そわか
oṃ vaiśravaṇāya svāhā
「毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)よ」と帰依し、その加護の成就を祈る真言です。『毘沙門天王経』の真言のなかにも「吠室囉麼拏野娑嚩賀(ばいしらまんだや そわか)」の句があり、この真言の核が原典に裏づけられています。
毘沙門天は、武神・守護神として、また福の神として、日本各地で篤く信仰されてきました。その歩みは、奈良時代の四天王像にまでさかのぼります。
毘沙門天の縁日は、一般に寅の日とされます。日本の暦では日にも十二支をあて、十二日ごとに寅の日がめぐってきます。信貴山の寅の示現の言い伝えにちなむとされ、京都では鞍馬の初寅参りも、古くから同じ寅の日の縁として親しまれてきました。
四国八十八ヶ所第二十二番札所、高野山真言宗の平等寺では、毎月1日の夜に毘沙門天護摩を修しています。1日は朔日、月のはじまりの日です。毘沙門天の別行の儀軌にも、月の一日と十五日を行を起こす日と説き、行を受け保つ者を、眼のひとみを護るように、身命を護るように常に擁護する、という毘沙門天の誓いが見えます。この起首の日は、日本の事相書『五十卷鈔』にも書き継がれました。月のはじめに修する平等寺の護摩は、この伝統に重なります。
平等寺の毘沙門天は、江戸期の作と伝わる寄木造(複数の木を組んで造る技法)の立像です。甲冑を身につけ、右手に鉾、左手に宝塔を捧げ持つお姿です。
人に安楽を、暮らしに財を、国土に護りを。そして、授かった福を自分だけに留めず、人へ回すこと。平等寺では、福徳と勝運を願う祈りを護摩の智火にのせ、この誓いとともにお届けします。護摩の内容とお申し込みの手順は、下の解説ページでご案内しています。

平等寺では、五尊の月例護摩をオンラインで受け付けています。願いごとに近い仏さまを選び、申込画面で内容を確かめられます。
本記事は、次の原典と資料にもとづいて、高野山真言宗 平等寺 住職 谷口真梁(たにぐち しんりょう)が記しました。漢訳経典・儀軌と事相書は大正新脩大藏經(CBETA・SAT)と『真言宗全書』の本文から、訳者・成立・章名を確認しています。「No.」は大正新脩大藏經の経・論番号です。研究論文は、無料で全文を読めるもの・書誌の確かめられるものにリンクを添え、寺院・博物館には公式サイトへのリンクを添えました。
毘沙門天と平等寺の祈りを、さらに知るための記事です。