釈尊は、人が生まれ、死に、また生まれ変わる「輪廻」を説きました。でも、「いまの自分が死んだあとも魂になって残り、次の生へ移る」とは言っていません。『中阿含経』というお経のなかに、このことをめぐるエピソードが残っています。
私たちは、目で見て、耳で聞いて、考えたり、感じたりしながら「これが私だ」と思っています。お経では、この「感じる・考えるはたらき」のことを「識(しき)」と呼びます。
むかし、サーティ(嗏帝)というお坊さんがいました。サーティは「この識こそ、死んでも変わらず次の生へ移る『魂』だ。体から離れても、しゃべり、感じ、行いの結果を受け取る」と考えました。つまり「死んでも自分は消えない」と思ったのです。釈尊がこの考えをどう正したか、次のことばを読んでください。
- 日本語訳
- 識は因縁によって起こる。縁があれば生じ、縁がなければ滅する。識は何を縁として生じたかによって、その名で呼ばれる。眼と色を縁として生じた識を眼識といい、耳・鼻・舌・身、意と法についても同じである。火も、木を縁として生じれば木の火といい、草や牛糞の集まりを縁として生じれば草や牛糞の火という。
- 原文
識因緣故起,我說識因緣故起,識有緣則生,無緣則滅,識隨所緣生,即彼緣。說緣眼色生識,生識已說眼識,如是耳、鼻、舌、身、意法生識,生識已說意識。猶若如火,隨所緣生,即彼緣,說緣木生火,說木火也。緣草糞聚火,說草糞聚火。
- 解説
- 出典
- 『中阿含経』二〇一経(嗏帝経(サーティ経)、パーリ『中部』MN 38)
釈尊の答えは、サーティの考えとは反対です。意識は、それだけで先に存在するものではありません。目と見えるものなど、意識が働くために必要なものがそろったときに生じ、条件が変われば、そのはたらきも変わります。火が薪や草を燃料にして生まれ、燃料がなくなれば消えるのと同じです。ですから、「亡くなった人が変わらない霊魂になって家に残り、事故や盗難を起こす」という説明は、この経典のどこにも書かれていません。
では、霊魂が移らないなら、行いの結果はどう続くのでしょうか。仏教は、魂が結果を運ぶのではなく、行いが次の結果を生む条件になると説きます。『雑阿含経』で、その考え方を確かめます。
- 日本語訳
- 行いをした者と結果を受ける者がまったく同じだとすれば常見に陥り、行いをした者と結果を受ける者がまったく別だとすれば断見に陥る。この二辺を離れ、中道によって法を説く。すなわち、これがあるからあれがあり、これが起こるからあれが起こる。無明を縁として行があり、こうして大きな苦の集まりが生じる。無明が滅すれば行が滅し、こうして大きな苦の集まりが滅する。
- 原文
自作自覺則墮常見,他作他覺則墮斷見。義說、法說,離此二邊,處於中道而說法,所謂此有故彼有,此起故彼起,緣無明行,乃至純大苦聚集,無明滅則行滅,乃至純大苦聚滅。
- 解説
- 出典
- 『雑阿含経』三〇〇経(自作・他作を離れる中道の経、パーリ『相応部』SN 12.46)
釈尊は、行いには結果があると説きました。でも、その結果を運ぶ変わらない魂は説いていません。「先祖の霊が家に残って、事故や盗難を起こす」という説明は、お経には出てこないのです。